|
☆☆☆小豆島ドットコム週刊ウエブマガジン☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 | ◆目 次◆
1) 戦争の悲惨さについて。
2) 母と娘と。
3) 大東亜共栄圏の解放。(十二月八日前後)
|
http://www.e-shodoshima.com/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆2005/03/20号☆☆☆
┏━┓━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃1 ┃ 戦争の悲惨さについて。 ┃
┗━┛━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
壺井栄先生は、女性の立場から、小説をとおして、戦争の悲惨さを静かに伝えて来
ました、が、今の時代にもなお、地球上では悲惨な戦争が続いている。もっともっと、
戦争が如何に愚かで惨めなものであるかを知って頂きたく思い、ここで山岡荘八先
生の小説を紹介して行くことにします。連載するにあたって、最初に山岡荘八先生
の、執筆を終えての言葉から紹介する事にする。
私が、この「小説太平洋戦争」を書き出したのは、昭和三十七年からであった。それ
から足掛け十年、昭和四十六年の九月まで、毎月四百字詰め原稿用紙で四十枚くらいず
つコツコツと書いて来た。掲載雑誌ははじめ「講談倶楽部」であり、それが.小説現
代」に引きつがれた。月刊雑誌に十年間にわたる長編の連載を許されるということは、
作者にとって、まことにありがたい稀有の仕合せであったと云わなければならない。
とにかくこの戦争は、数千年の歴史を持つ日本にとっても、日本人にとっても、始め
ての経験であり、その最初の発端は嘉永六年(一八五三)の黒船渡航以来の転変にあっ
たと考えなければならない大変な戦争であった。
しかし、そうしたこの戦争の根深さは、直接日本がこの戦争に突入した昭和十六年十
二月八日の時点では、一文学青年に過ぎなかった私には、どうにも解きようもないもの
だった。
支那事変にしてもそうであったが、私や私の隣人たちは、予報なしにいきなり大暴風
雨の襲来に出遭ったような狼狽で、ただその時々のニュースの周囲をウロウロしてゆく
始末であった。おそらく大多数の日本人がそうであったのではないかと思う。
問題の東条内閣が成立した昭和十六年の十月十八日には、私は二度目の中支方面の従
軍を終り、武漢三鎮から南京を経て上海に辿り着き、そこで長崎行きの連絡船を待って
いる時であった。
険悪な国際情勢はよく呑み込めず、第三次内閣を投げ出したという近衛さんの進退に
小首は傾げてみたものの、それが太平洋戦争に直接つながる動機になろうなどとは、思
いも寄らなかった。
ところが、それから五十一日目、十二月八日の朝、文字どおり寝耳に水を注ぎ込まれ
た想いでラジオに叩き起されることになった。
戦争というものが、すでにどのようなものかは私も少しは知りかけていた。殺人とい
う平時最大の悪業が、殺し合う人々の間には直接何の恩怨もないというのに、国家の名
で堂々と行なわれる。その殺人の量が功績となり、忠誠心を計るバロメーターになって
勝利者が決まってゆく……というような不思議なルールの現実が、どうしても私には納
得できなかった。われわれの棲んでいる世界は、そのように野蕃な矛盾をかくし持って
文明を偽装していたのだというおどろきに、良心の戦慄を覚えながらも、十二月八日の
時点では、正直に云って、私は一種の武者震いを感じた。
数度の中南支従軍で、日支事変を終らせないものが何であるかということだけは、
薄々感じていたからであろう。
日支事変を泥沼へ追い込んでいるものは、決して近衛や東条でもなければ蒋介石でも
ないようだった。両者が握手しそうになると、列強の間から援蒋の手が動いたり、原因
不明の不思議な事件が突発したりして戦線は思わぬ方向へ拡大する。前者の主役はアメ
リ力とイギリスであり、後者には世界赤化をめざすコミンテルンの手が動いている、と
いうことだけは気づきだしていたが、それがそのままアメリカもイギリスもソ連もみな
敵に廻して戦わなければ、解決の道はないなどとまで考えつめたことはなかった。
こうして十月下旬に上海から東京へ帰った時には、もはや戦争はわれわれの頭上で決
定してしまっていた。私は陸軍に召集される代りに海軍側に徴用され、報道班員として
従軍させられるように決っていたのだ。
正式に徴用令書を受け取ったのは開戦直後で、私は三十四歳という働き盛りなのだか
ら当然であったと思い、こうなれば日本人として生死すべきだと覚悟を決めた。
私はわが家を出る時に、まず、自分の位牌を作って仏壇の片隅にかくしていった。そ
の小さな位牌はいまもわが家の仏壇に入ったままだ。黒塗りの表に白絵の具で「釈荘
八」と、自分で書いてある。養父が真宗の僧侶だったので、戒名など自分でつけるに限
ると思った。自分で自分は死んだものと決めて出てゆかなければ不安だったのだろう。
戦争は何度も見て来ているので、戦場の現実は幾らか知っている。ここで自我と闘って
いたのでは自分から不運を招き寄せる結果になる。そう私に思い込ませるほど、私の見
て来た戦場では、個人の意志や感情や計算は、余計な重荷の別世界であった。
味方でないものは敵であり、生か死かがまことに無造作に反覆される。命令が一切の
行動規準でありながら、生命を惜しんでいる者の方が、眼に見えない何者かに狙い撃ち
されているような気さえした。
そこで私は、まず自分を自分の手で殺しておくに限る、と思った。自分の方から先に
死んで出てゆけば気は楽だと思ったのに違いない。
こっちは非戦闘員なのだから、直接戦う人々にはまことに生意気な横着者に見えたで
あろうが、しかし、私はこれで救われたとも思っている。死んだ者がやたらに腹を立て
たり怖えたりするのはおかしい。この反省がつねに心と行動の支えになった。
私は最初にサイゴンヘ飛び、そこからシンガポールの陥落前にタイ国へ入って、陸軍
南下のあとを追って、最初の木炭列車でバンコックからマレイに入った。そしてシンゴ
ラ、コタバルを経てピナンの海軍基地にわたり、ここでシンガポールの陥落を見届け
た。
こうして太平洋戦争と直接かかわりあいを持ちだして、昭和二十年の十月十五日、参
謀本部と海軍軍令部の廃止が決定した時に徴用を解かれた。
この日軍令部に呼び出されて「金一封」(五百円入っていた)を頂いて、本日限り日本
に軍隊はなくなったと云われた時には、覚悟していたことながら、すでに亡い多くの
人々の面影が思い出されて、それこそ、とめどなく涙が流れた。
その日は十月には珍らしく暖かい晴天で、灰燼に帰した大東京の空は限りなく澄んで
いた。
私は、この日はじめて、廃墟と化した道筋を、丸の内から銀座に出て、さらに浅草ま
でとぽとぼと歩いてみた。
浅草もまことにきれいに焼けていた。が、雷門の焼け跡に来てみると、わずかなが
らすでに露店が出ていた。鍋、釜、食器といった、生きるために必要な最小限の日用品
がポツポツと売られだしていた。これが戦前の生活に還るのはいつのことであろうか
……?
そう思うと、その前にかがみ込んでいる人々も、青空の下で客を呼ぶ人々も、
云いようもなく哀れで無力なものに見えた。
私はこの日、金三百円也を出して、マッチ箱ほどの大きさのタバコの火つけを買って
いる。クローム線をほんの一センチほどつけた電熱器である。マッチが不足して困って
いたので、これでタバコに火を点けようという下心はむろんあったと思うが、それ以上
に、その日貰った五百円で、何か永久に残る記念品を買っておきたかったのに違いな
い。
それにしてもマッチの代用品が、数ヵ月分の生活費にあたるほどの、三百円にもなっ
ていようとは……しかもこれはわが家に帰って使ってみると、電圧が低くて使いものに
はならなかった。
私が、死んでいった人々の後を、自分も追おうと考えて、鹿屋から沖縄の空へ見送っ
た特攻隊員の最後の署名帳を携えて、恩師長谷川伸先生のもとを訪れたのはこの電熱ラ
イターを買った数日後であったと思う。
私は署名帳を先生に預けて死ぬ気であったが、先生はそれを一目で見破り、私が署名
帳を差し出すと、これを白ちりめんの袱紗に包み直して、私に突き返された。
「―これを大切に活かすのだね。それが生き残った者の勤めだろう」
声は優しかったが訓戒は手きびしかった。こうして私は、私の位牌を秘めた仏前に、
突き返された署名帳を並べて納め、日々それと対面しながら戦後の右往左往の中で生き
なければならなくなった。
戦地から続々と友人達が復員しだした。死んだと思っていた人がひょっこり帰って来
たり、生きていると思っていた人がとっくに死んでいたりした。生きて戻った人も死ん
でいった人も、みな善良で忠誠な同胞であった。
その中で私が一番辛かったのは、占領軍が日々ラジオで語りかけて来る「真相はこう
だ!」という独善放送であった。
日本人のすべてがどのように巧妙に大本営や軍部に欺され、踊らされていた愚民であ
ったかという放送が、これでもか、これでもかと、つるべ射ちに撃ちかけられた。
私に、私の任務はまだ終っていなかったぞと悟らせてくれたのは、この放送であった
といってよい。
しかもあの広大な戦域のあちこちから、廃墟と化した母国に辿り着いてくる人々は
日々の生活に追いかけられ、肩をすくめてこの悪罵に似た占領放送に耐えている。それ
だけではなかった。それと並行して進められているのがあの東京裁判という、始めから
筋書きの決定していた子供だましの田舎芝居であった。
それにもう一つ、直接執筆の動機をなしたのは、国内にあった人々は云うまでもな
く、広大な戦域に散って戦わされていた人々は、個々のおかれた戦場の実情はわかって
いても、どういう関連で自分たちが、あのような苦戦を強いられなければならなかった
のか?どうして日本は敗れてしまったのか?誰も的確には掴み得ないまま、みじめ
な敗戦生活を強いられているということだった。
連合軍側はすべて正しく、日本の散華者はみな犬死― そんなあり得ない戦争が、日
本民族の手で強行されたなどと云っても誰も信じる者はあるまい。しかし、その関連さ
えわからないのでは占領政策の批判どころか、子女の質問にも答えられない。
やがて整理された戦史の出る日はあるであろうが、一人の物語作家として、とにか
く、何のためにこの戦争は起こり、どのような経過を辿って敗れ去ったか? その荒筋
だけでも読みやすく書き残しておくことは、この戦争に物語作家として従軍した私の責
任であったと思い返して筆を執ったのがこれである。
それにもう一つ書き加えておきたいのは、私にとっては忘れることのできない先輩、
吉川英治先生が実は、物語戦史的な作品を海軍側から委嘱されていた事実を私は知って
いたからでもあった。
おそらく先生もそれを書く気で始めから資料を蒐められていたと思う。しかし、その
時にはまだ惨めな敗戦までは考えられず、占領軍の進駐するにおよんで、先生もまた一
般国民と同様に、涙をのんで沈黙を余儀なくされたものと思う。
私が、昭和三十七年までこれを書き出さなかったのは、あるいは先生が書き出される
のではないか-… というためらいが私にあったからである。そうなれば、当時の日本人
の張りつめた感情を、先生の麗筆で後世に遺すべきであり、その方が、数百万の犠牲者
の慰霊になると信じたからだ。
その吉川先生も、恩師の長谷川先生も今は亡い。執筆中にお目にかかり、いろいろと
当時のお話を伺いながらご鞭捷を頂いた諸先輩や将軍、提督の中からも十指に余る方々
が亡くなられた。
しかし、それらの諸霊や、三百万を超える有名無名の戦死者の悲痛な祈りが、生き残
った人々の心に、同胞愛、祖国愛の火を燃やしつづけ、とにかく今日の復興をもたらし
たものと私は信じている。
さて、こうして書きあげてみると、私の作品はひどく貧しい。書き止めたい事はまだ
たくさんあった。しかしながらこの民族未曾有の悲劇の荒筋だけは、当時の日本人の感
情で、辛うじて伝え得たのではないかと思っている。
「―父よ、あなたは強かった!」
それは戦時中の軍歌の一節ながら、白欧文明に圧迫され続けた有色人種の、歴史の転
機に際会して、否応なく引き出された戦場での無名戦士の哀しさを語り尽くして余りあ
る一句であったと思う。
それにしても何と高価な犠牲であったことか。この一戦だけで大西洋を除くほとんど
すべての海域に、日本人はいまだにその遺骨を打ち捨てられたままになっている。故国
へ戻ったのはほんの一部に過ぎまい。その痛みをひしひしと感じながら、改めて合掌し
て許しを乞いたい。
拙作ながら、筆を措くに当って、私は私にひそかにこう命ずる。
「― 大本営報道班員山岡荘八本日限りその職を解く ―」と。
(昭和四十六年九月二十九日空中観音小堂において) (山岡荘八 記)
┏━┓━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃2 ┃ 母と娘と。 ┃
┗━┛━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
十五
裁縫のような、こん(根気)のいる仕事をすることが、雪子はもういいか
げんいやになった。しかもどこの誰が着るかしれない上等の着物を、注文通
りに、仕立て上げなければならない。中にはつぎはぎだらけのものもあるに
はあったが、それだとて時世が時世だけにかけがえがなく、他人の手をわず
らわせてまで仕立てに出しているのだろうが、中には縫賃を出しても損にな
りそうな、くたびれ果てた銘仙などみると、哀れを通りこして悲しくなった
りする。縫う手間よりも、つぎはぎの色紙の時間の方がかかったりするから
だ。
−これでは縫賃を上げてもらわんと、引き合うた話じゃない。
つぶやいてはみても、どうなるものでもあるまい。
こんなかけひきになると、菊二郎はなんとしても強引に押し通す。いつか
もそれをいうと、
「まあそう言わんと。さらの反物もあるんですから、平均したら、ちょうど
よろしいことでしょうが。その中また、さらのをもってきますがな」
そうはいっても、さらの反物は雪子などの素人よりも多く、仕立屋回しに
なっているのを雪子はしっていた。買手の注文なら仕方がないと思ってはい
ても、もうこの仕事をはじめて三年めなのだ。わりあい雪子の評判はよいし、
もしかしたら、裁縫塾でも開こうか、などと夢をもつことさえある。そして、
一しょに生花の方もはじめたら、母の小はなに対抗して、ある程度やってゆ
けるのではなかろうか。
それにしても、娘たちがもんぺをぬいできものを着たり、花を生けたりでき
る時は、一たいいつなのだろう。戦勝につぐ戦勝で、田舎は田舎なりにわき
立たされてはいても、負け戦の内しょ声も次第にひろがっている。勝ってい
るなら、佐一郎だって便りぐらいは寄こせるはずではないか。これではとう
てい生きて戻ってくる人とは思えない。
つぎはぎだらけの着物を、やりくりしながら、それでも雪子は女らしい夢
をくりひろげたりもする。
−勝つにしろ負けるにしろ、戦争がすんで、たく山、男の人が戻ってきた
ら、私にだって適当なつれあいが見つかるかもしれないわ。そしたら私は、
いい嫁さんになってあげる。そしていい子供を生んで、かしこく育て、佐衛
門の名誉を回復する。そして母の仕でかした恥を、そそいでみせる。……
とはいっても、そのたく山の兵隊さんたちと一しょに、佐一郎も戻ってく
るかもしれない。八重乃の死んだことを、彼はどんな風に嘆くだろうか。母
子ほども年のちがった妻をもった男の、一種のコンプレックスは、なにかに
つけてつきまとっていたことを知っている雪子は、八重乃の死も案外あきら
めやすく、佐一郎は平気で後妻をむかえそうな非情な気もする。何しろ、戦
争は、未婚の女をたくさんたくさん残しているのだ。それが一人一人抜かれ
て、妻の座につくことになるのだ。選りどり見どりというようなこともあろ
う。そんな場合、自分はどうなる。……
雪子は肩のあたりがじかの風にふれたようにぞっとする。佐衛門のせめて
家つき娘とでもいうなら、ぼろの家でも家に引かれてその気になってくれる
相手もあるかもしれないが、佐一郎が戻り、一郎がいて、おまけに後妻でも
むかえてでんとかまえられたらもうおしまいだ。そうなれば、けっきょく、
小はなの娘として嫁にゆくより通用しないことになるのかもしれない。
−ええ婿さんが、あるんだけどね。……
いつか小はなに言われたことを思い出し、雪子はまた肩をすくめた。しか
し、あの時のような、わるい気はしなかった。それというのも自分の心のど
こかに、なにかしら異性のにおいのようなものを、しらずしらず求めている
ことに、気がついているからだった。菊二郎のような見にくい男でさえも、
女にとって好もしいような体臭をもっている。もしも彼が、ひどいびっこで
なかったなら− と考えたりすることさえ雪子はある。
−そしたら菊二郎だって、戦争にとられてるにちがいない。
雪子はふと、縫物を放り出して両手を揃えてながめた。
−この手をにぎったのが、菊二郎だけだなんて。
なんという情けない貧しい青春なのだろうと思わずにいられない。あのと
き菊二郎は小鼻に汗をかいて、にぎった両手に力をこめていた。そして、じ
りじりと雪子の方にからだを押しつけてきていたのだった。雪子もまた押さ
れるままにまかせ、菊二郎の肩のあたりに顔をもたせていた。強烈な体臭と
ともに甘やかな思いが全身をつつみこみ、はげしい悔いが次第に衣をぬぎす
てかけたとき、裏に小はなたちの足音を聞いたのだった。足音だけならその
まま事態は意外な方向に進んでいたかもしれないが、
「雪子、いないのかい」
と声がかかったことで、雪子は我にかえり、思わず菊二郎を突きとばした
のであった。
−よかった。
と、あの時のことを雪子は思う。もう一歩進んだところまでいってからな
ら、もっとスリルがあっておもしろかったかもしれない、などと、わざと残
念らしく考えてもみるが、そしたら今ごろはどうなっているか。母の小はな
の言うように、雪子を手に入れた思い上りで、菊二郎はなにをこそ仕でかし、
なにをこそ言いがかりにするかしれたものではない。
それなのに、雪子は時々、思い出したように両手をならべて眺める。淡い
悔いとともに、菊二郎への思いが、わき上ってくることもあれば、何の菊二
郎ずれがとふてぶてしくきつい目に終ることもある。だが直接菊二郎に対し
ては、やさしく女らしくなることはめったになく、大たいにおいて薄情さを
みせた。菊二郎がしんけんになって、結婚話をし、将来のことなどのべだす
と、雪子は唇のはじに笑いを浮かべて、
「それ、だれとだれのこと?」
菊二郎はがっくりして、
「どうしてそう、雪子さんは薄情なこと言うんですか」
以前のようにもうお嬢さんでなく、雪子さんと呼ばれることも雪子にとっ
ては心外だった。倒れかかった旧家の佐衛門の娘なのだ。別にお嬢さんと呼
ばれたくもないし、かえって気恥かしいぐらいなものだが、といってちょっ
としたきっかけで手が触れあったというだけのことから、急にお嬢さんが雪
子さんに下落したとなると、気色はよくなかった。
「薄情って、なによ」
わざと雪子は突っぱなした言い方をし、
「そりゃあね、このごろ、さらもん(新しいもの)の仕事がよく回ってくるこ
とは気がついてるわ。ありがたいと思って、念を入れて仕立ててるわ。気が
つかない?」
「ついてますよ。でも、そんなことと話はちがいますよ」
「ソンナコトトチガッテ、結婚したいって?」
まるでよそごとのようにいうと、それでも菊二郎は一ひざのり出し、
「そうですよ。まじめなんです」
「そう。私に、仲だちでもしてくれっていうの」
「……」
さすがに腹を立てて帰りかけたりする菊二郎も、時には思い直して、また
戻ってき、
「ね、雪子さん、この話、まじめに考えてもらえませんか。お願いします」
雪子の前に手をついて頭を下げたりする。それでも雪子は少しも困った顔
などせずに、
「そりゃあ、あんたが冗談を言ってるとは思いませんよ。だけどね菊二郎さ
ん、あんた、ほんとにだれと結婚する気?」
「いやんなっちゃうな」
肩を落す菊二郎に、雪子は笑いかけ、
「まさか、私ではないでしょ」
すると菊二郎は憤然として、
「どうしてですか」
「どうしてって、どうしてなのよ」
雪子も負けてはいない。だが菊二郎は声を大きくして、
「あんたは、私に、気を許したじゃないか」
「あら、いつよ」
さすがに雪子は赤くなりながら、
「こないだのこと? 蔵の中のこといってるの」
「そうです」
「蔵の中で、どうしたの。結婚の約束をしたっていうの」
「したも同じです」
「そう。男と女とが、手をふれ合っただけで結婚の約束になるの。それじゃ
あ菊二郎さんなんて、何人奥さんをもらうの」
小はなに聞かされたことを、ちょっとにおわせると、菊二郎は青くなって、
弁解した。
「私は、何べんも女にだまされました。手もにぎったし、からだも自由にし
ました。しかし、結婚してくれる女は、いえ、結婚したいと思う女は、雪子
さんだけなんです。それは信じてほしいんです。ほんとです」
雪子はまた苦笑を浮かべながら、
「そりゃね、私だって若いのよ。もののはずみに、手がふれあうことだって
あるわよ。でも、それが結婚の約束になるんだとしたら、うかうかできない
わ。あの、土蔵の貸借も解約にして下さいな。たった今とは申しませんから、
今月中に引きとって下さいな」
「そんな、むごい」
「いえ、むごいのはそっちよ。それをもとにして、へんな言いがかりをつけ
られたりしちゃあ、たまらないわ。土蔵かして、貞操まで疑われるようなこ
とを言われちゃあかなわない。言っときますがね、私は母とは少々ちがうつ
もりなのよ。母には佐衛門では暮せないものが性格的にあるんだし、それは
それでよいのだと、今では私も思ってますけどね、同じように私には、佐衛
門でなくちゃあ暮せない性格があるのよ。だから結婚なんて、今のところ、
考えられないことよ。これっきり、こんな話、よして下さい」
「……」
「手をふれたなんてことだって、人に話したりすれば、馬鹿にされたり、笑
われたりするだけのことよ。あんたのためにも、だまってる方がいいと思う
わ。でも、しゃべりたければ、しゃべってもよろしいですよ。どうせ私は佐
衛門のいかず後家(未婚の後家)で生涯くらすでしょうからね。その、いかず
後家が、びっこの菊二郎と手をにぎったなんて、ご愛嬌じゃないの。いいふ
らして、笑いものにしていいわよ。その代り、土蔵は返して下さい」
「……」
菊二郎はぽたぽたと大粒の涙をこぼしながら、下唇をかんでだまっていた
が、やがて、すわり直すと、
「まじめなんです雪子さん。うちの親方のおかみさんにたのんで、ちゃんと
道をふんで出直しますから、なんとか考え直してもらえませんか」
「土蔵のこと?」
「いえ、結婚のことです」
「あら、まだそんなこと考えてるの。土蔵のことなら、そりゃあ私だって生
活問題ですから考え直しますけど、結婚なんて一生の問題ですからね。やっ
ぱり、こんなふうに軽々しく考えたくないわ。それに−」
「なんです?」
「いろいろと、佐衛門にはややこしいことがあるのよ」
「私が、解決します」
「って言ったって」
雪子は声を出して笑い、
「それに、私にだって、ほかに縁談もあるのよ。そっちを片づけてからの話
にして、とにかく、今日は引きとって下さいよ」
菊二郎はだまってうつむいていたが、突然立ち上ると、からだ中を引っく
りかえすような恰好で雪子のうしろに回り、素早くもんぺの衿元のうしろに
手をかけた。あまりのことに雪子は声も出ず、ずるずる引きずられながらも
がいた。しかし、あまりにも突然だったために、まるで、うしろむけのまま、
案内でもするように、奥納戸へ引きずりこまれていった。
菊二郎などの知っているはずもない納戸の四畳半は、土蔵についでの佐衛
門家の物置になっている。壁際にたんすの一樟、ふとんの入った長持などの
並んだ間に、一流れぐらいの夜具をひろげる場所があり、ちょっとした病気
の時などそこで寝る習慣になっていた。もちろんそこに、今ふとんがのべら
れてあるはずもなかったが、そこまでゆくと、雪子はもう、精も根もつきた
ように、両足をかがめて横たわった。そして、菊二郎の思いがけぬ荒々しい
動きに、目をつぶったまま、身をまかしてしまった。
−えらそうな口、利いたって、負けたじゃないか。
そんな声が、しきりと耳もとでささやくような気がする。
どのくらいの時間をそこで過ごしたか、気がつくともう短い秋の日は大分
傾いているらしく、隙間からもれ入る夕日はかたむいていた。そして、歌の
好きな一郎の、きのう教えたばかりの歌声が聞えてくる。
やさし コスモス
秋の陽にランラランラ
かげはさゆらぐ
白壁に白壁に。
こんなやさしい歌は、村のどこからも、だれの口からも聞かれはしない時
代に、一郎と二人で、こんな歌を歌ったことに、雪子はなぜか涙がこぼれ、
疲れ果てたからだを起した。
「一郎ちゃん!」
と小声で呼びかけた。菊二郎はもうとっくに帰っていた。
つづく
┏━┓━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃3 ┃ 大東亜共栄圏の解放。(十二月八日前後) ┃
┗━┛━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
この小説における国名、地名、関連する事件、事変等の記述はすべ
て当時の一般的な呼称に従ったもので、本書は昭和四十年から四十
六年にかけて刊行された原本をそのまま復刻したものです。ただ
し、送りがな、振りがな等、適宜訂正しました。
◆ 奇傑外相 ◆
一
昭和十六年(一九四一)の四月二十二日の午後であった。
この日一ヵ月あまりの訪欧の旅を終えて、軍用機で大連から立川飛行場に飛来するま
での外相、松岡洋右の胸では大きな希望とハチ切れそうな闘志が渦を巻きつづけてい
た。
日本における三国同盟の提唱者。シベリア鉄道経由でベルリンを訪れ、帰途にはまた
モスクワに立ち寄って、わずか三日で日ソ不可侵条約を締結し、彼の抱く大規模な事変
処理の腹案に成功のメドをつけての帰朝なのである。
眼を開くと眼下に桜の祖国が展開し、瞼を閉ずると、ベルリンでの華々しい歓迎宴や
スターリンの顔がまだまざまざと活きている。
(近衛首相が、どんな表情で自分を出迎えてくれるであろうか……)
そう思うだけで、彼にとってはまさに人生最上の日であった。
世間では彼を霞ガ関の怪物とか、型破りの大風呂敷とか云っている。いったん口を開
けばとどまることを知らない怪弁の持ち主で、国際連盟脱退のおりには世界中を相手に
して啖呵を切った立役者でもあった。
こんどもベルリンではヒットラーやムッソリー二を向うにまわして思うままに気焔を
あげ、モスクワではわざわざスターリンに駅頭まで見送らせ、世界中の外交官が見てい
る前で、彼と相擁して、互いに肩をたたきあって別れて来た。むろんその写真はすでに
世界中へ電波に乗ってバラ撒かれている。
クレムリン宮殿の奥に潜んで、つねに陰気な微笑で群衆の前などには滅多に姿を見せ
ないスターリンが、わざわざ駅頭まで見送ったということで、外交官としての演出もま
た型破りの効果をあげた。
しかしこの世界中を煙に巻こうとする陽気な怪物も、つねにただ一つ、少年のような
素直さで純情をささげ尽くす対象を持っていた。
それは信仰と云ってもよし、恋愛といってもよい。いま彼のそうした対象は首相の近
衛文麿であった。
このいちばん皇室に近い貴族出身の青年政客が、「満州建国」以来の軍人たちの鼻息
に翻弄されながら、何とか国難を打開しようとして焦慮している姿は、絹ハンカチが雑
巾バケツに叩き込まれているのを見る以上に痛ましかった。
「近衛は軍部によい」
そう云われているのは、下剋上の少壮軍人たちにとって、彼がいちばん操りよいとい
うことで、近衛の理想は次々に彼らに喰われ、彼らの熱気にふみにじられた。
少年時代アメリ力で皿洗いをしながら勉強し、外交官から長い満鉄生活ののち、今日
の大満鉄の総裁までやって来ている彼の目から見ると、現在の日本の国難は、この貴族
育ちの白面宰相の手に負えるような生やさしいものではなかった。
その証拠に、昭和十二年の七月七日の夜半、北支の藍溝橋で、日支のいずれが発射し
たのか、原因不明の発砲事件に端を発した支那事変(日華事変・日中戦争)は、いまだに
解決の曙光も見えず、底なしの泥沼に踏み込んでついには日本の生命とりになろうとし
ている。
(この発砲事件は戦後に至って、中国共産党の後の国家主席劉少奇が、北京の精華大
学の学生と青年党員とを使い、宋哲元き下の二十九軍の下士官兵を煽動して発砲させた
ことが劉の報告によってわかったのだが、当時はまだ深い謎につつまれていた。むろん
中共(中国共産党)はそれによって日本軍と蒋介石軍を戦わせ、共倒れにしようと計っ
たものである)
今でもその当時からの近衛の、風のまにまにゆれ動いて来ている政策のあとを見る
と、松岡洋右は涙が出て来てたまらなかった。
七月七日に事変が勃発すると、翌八日の午後には近衛は現地へこう命じた。
「―事件は拡大すべからず。兵力は行使すべからず」と。
そして九日の閣議では正式に、事件不拡大、現地解決―を決定し、その解決案まで
決めていながら、その後三日にして、十一日には北支派兵に変っている。
決して政治感覚がないのでも頭脳が混乱しているのでもない。その証拠に、彼はその
後まもなく事件の重大性を感じとって、自身で南京に赴き、蒋介石と直接話し合うと云
い出している。
むろんそれが実行されていたら、今日のような厄介な手詰まりにはならなかったに違
いない。
が、彼は南京に赴く代りに、九月五日に至って、
「―今や断乎として積極的、かつ全面的に支那軍に大打撃を与え、もってこれを贋懲
するのほか道なきに至れり」
と、日比谷で民衆に呼びかけた。何も知らない民衆は彼を稀有の名宰相と信じ込んで
拍手を送ったのだが、その頃から事変の前途は暗澹として見透しがたいものになった。
むろんその間にも講和の機会が全くなかったわけではない。
十月中旬に至って、ドイツの駐支大使トラウトマンが蒋介石との間で可能性の打診を
とげ、駐日大使のディルクゼンを通じて和平斡旋の手をさしのべて来たのである。
トラウトマンは、日本軍が次第に支那(中国)本土に兵力を割かせられ、満州の守備
は手薄になり、それを狙ってソ連の動くのを案じたのだ。
ソ満の国境を衝かれると日本は両面作戦の不利に陥るし、逆に日本に余力はないと見
て、ソ連の極東軍を西にまわされると、ドイツが脅かされる結果になる。
しかしこの申し出も、末次内相の反対によってついに立ち消えになってしまった。
こうしていよいよ戦線は中支に拡大、十二月には南京まで進攻し、十三年の一月には
御前会議を開いて改めて国の方針を立て直さねばならぬ結果になった。
この時もいちばん戦の長びく事を心配されたのは天皇ご自身であった。
天皇がもしその席上で、もはや戦は止めるようにと、一言ご発言なされたら、いかに
思い上がった軍人たちも恐れ入って引きさがったに違いない。ところが、その時、天皇
の発言を封じたのもほかならぬ近衛であった。
「―君臨すれど統治せず……」
それが、英国流の政治責任を負わぬ天皇のあり方であり、西園寺公望もそう云われて
いるゆえ、質問程度まではよいが、ご意見は差し控えられたいと奏上したのだ。
もちろんこれとて近衛だけの意見ではない。近衛をしてそう云わしめた者が何である
かはいうまでもあるまい。
そして一月十六日に至ってついに、最後まで持てあました「―蒋介石を相手にせ
ず」の珍声明を発させてしまったのだ。
およそこれほど外交慣例を無視した奇妙な声明は世界にその例があるまい。宣戦布告
はしてなかったにもせよ、現に蒋介石の軍隊と日々血を流しあって戦いながら「―こ
れを相手にしない」とは、いったい何という事実無視の思いあがった嘘であろうか。
……相手にしない相手のために、月々巨大な軍費と人命を失っている。…―この厳然た
る事実を終息させるためには、相手と和を講じないで何をするというのであろう…
さすがにこの奇怪な声明は内閣でも持てあました。そして、十三年の九月には、広田
弘毅に代って外相に就任した宇垣一成(かずしげ)の手で、これは無視されかけた。
宇垣一成は、事変処理を目的として外相に就任すると間もなく、蒋介石と密かに連絡
をとり、行政院長の孔祥煕(こうしょうき)と、長崎で会談するところまで事を運んだ。
そして孔祥煕は、海相・米内光政のまわしてやる巡洋艦に乗って香港から長崎へ九月中
にやって来ることに決まった。
おそらくこれが順調に運んでいたら、この時両者の和平は成っていたに違いない。と
ころがこれもまた中共の術中に陥っている軍部の妨害にあって実現しなかった。彼らは
この交渉の事実を知ると、急遽興亜院の設立を主張し、対支交渉は一切あげて興亜院の
手でやると云い出したのだ。
宇垣一成は憤然として外相の椅子を去った。当然ここでは近衛は、軍部の申し出を一
蹴して宇垣を扶けなければならなかったのだが、ついにそれもなし得なかった。
国内の問題でさえこれなのだ。蒋介石の背後にあって、しきりに彼を援助しながら抗
戦を続けさせている米国や英国との外交などはほとんど無策にひとしかった。
それで、十四年の一月五日に近衛が刀折れ、矢つきた形でいったん下野し、平沼内
閣、阿部内閣、米内内閣と三つの短期内閣を経て、十五年の七月二十二日に再び近衛が
担がれて第二次内閣を組閣することになると、松岡洋右はすすんでこれに外相として加
わった。
「―あなただけではとても軍部はおさえきれません。軍部がおさえきれずに、このま
まずるずると担がれていったのでは、あなたは国を滅ぼします」
五摂家随一の名門に生れたこの白面の宰相を彼は、立派な大政治家に育てあげてみた
いという、ふしぎな情熱を感じていた。
頭脳も明晰ならば、感覚も鋭い。足りないのは押しと経験と実行力なのだ。
「―私はあなたの代りに軍部に対してはどのような憎まれ役も買って出ましょう。今
や世界は大切な転換期に直面しているのです。よほどの見透しと決断力を持たない限
り、次の世界地図からは掻き消されてゆくでしょう。軍部と外交のことは、この松岡に
お任せ下さい」
自信家でもあったが、それ以上に、近衛をして、安心してその夢をひろげさせてやり
たかった。彼を中心にして、明治維新の飛躍から二度目の大飛躍をとげさせ、それによ
ってこの国難を積極的に切り抜けさせてやりたかった。
「―あなたは私の恋人です。あなたを新しい日本の太陽にして見せます。くれぐれ
も、軍部と外交のことは……」
彼自身もまた一個のロマンチストなのだ。彼が近衛文麿を見る眼は、いつも愚かれた
献身者のそれであった。
彼は近衛の外相であると同時に、
みずから忠実な傅役をもって任じた一種の奇傑であったのだ…
二
松岡が第二次近衛内閣の外相として登場したときには、すでにヨーロッパでは第二
次大戦の突風が吹きまくっていた。
むろんそれは松岡洋右の予感にないことではなかった。
すでに世界は殖民地依存の白欧主義をそのまま安易に存続させ得る状態にはなかっ
た。
いかなる文明にも年齢はあり、それが頽廃期に入ってゆくと、どのような力をもって
しても支えきれない破綻に遭遇するものであった。
日本の満州事変もある意味では、その老いた白欧時代の晩鐘であり、次の時代への暁
鐘なのだと松岡は受け取っている。
明治維新の日本が、英、仏、米、露の四ヵ国から分割侵略されようとした時には、も
はや地球上には彼らによって、殖民地化されなかった土地は数えるほどしか残っていな
かった。
ほどんどすべての有色人種が、彼らの文明の前に拝跪して、搾取に甘んずる奴隷の地
位に蹴落とされていたのである。
その有色人種の中で、日本だけはとにかく表面独立を維持し得た。いや、維持するた
めに明治初頭の先人が、どのような努力を続けて来たかは想像のほかであったー
とにかく、その時代を風靡している白欧文明に追いつかなければ侵略の手は払い得な
いのだ。明治の先人はそのために丁髷を切り帯刀を捨てて、敢然として白人文明の大海
に泳ぎ入った。
「富国強兵」
それは世界で唯一といってもよし、有色人種最後の砦守(とりでもり)と云ってもよい
日本人たちにとって、独立と生存をかち取るための、ギリギリの条件だった。
今でも松岡洋右が、彼らの専横を憤りながら、心底から軍閥を憎み得ないのは、そ
の芽生えにこうした事情の伏在を知悉(ちしつ)しているからに違いない。
明治の日本人は逞しい消化力で白欧文明を喰い散らした。そして日清・日露の両戦役
を経て、ようやく白人たちの間でも、近代国家として認められるほどの地歩を築いた。
当然のこととして富国政策によるささやかな財閥が誕生し、軍人の群の跳躍がはじま
った。
しかし、それらはいまだに世界の大国の眼には皮膚の色を超越して、互譲の念を持ち
合わなければならないと考えるほどのものではなかった。
その証拠は無数にある。日清戦争のあとの三国干渉。ロシアが朝鮮半島を南下侵略し
て来て、日本の存続をおびやかして来たのが原因で起こった日露戦争のあとの出来ごと
…
日本は日露間の講和のあっせんをしてくれた当時の米国大統領、テオドール・ルーズ
ベルトに救世主のような感謝をささげたものだった。ところが、明治三十八年(一九〇五)
八月、日露の講和談判の終結に先だって、もはや米国の鉄道王ハリマンは、日本で南満
州鉄道の買収のため活躍を開始し、桂首相に予備契約を結ばせるという手廻しのよさで
あった。
その直後に講和条約を結んで帰朝した小村外相はびっくりして、
「それでは、日露戦争で獲得した唯一の利益を米国へ献上することになるのではな
いか」
面をおかして反対し、ついにこの契約を破棄させたのだが、この例でもわかるように
彼らの好意は決して単純な日本流のものではなかった。
日本人は口を開くと、
「士はおのれを知る者のために死す」
などと云う。しかし白欧的な思考の中には、つねに「合理」と「合利」が整然と好意
と同居しているのであった。
英国が、ある時期に日本を同盟国に選んでくれたのもむろん例外ではあり得ない。幼
い後進国に目をかけてやる代りに、汝も東亜で大英帝国の忠実な番犬をつとめるのだ
それは後進国にとっては、ある時期には充分に感謝すべき好意であり、ありがたい
憐憫であったかも知れない。
しかし、この彼らにとっての後進国が、やがて世界の五大強国の中に数えられるよう
になる頃には、事情はいろいろ変って来ていた。
白欧文明の本拠であるヨーロッパヘはマルキシズムの低気圧が刻々に育ってゆき、新
興日本国では、三千万の人口が、七千万にもふくれあがって来ていたのだ。
民主主義の原則に忠実ならば、何分の一かの数に過ぎない白色人種が、そのまま地球
と全人類を支配してゆくという理論は、当然その説得力を失いだしてゆくはずだった。
白欧主義の文明が、明らかに黄昏期へ突入しだしていたのである。
マルキシズムによるソ連邦は、世界赤化のために国際共産党の網を張りめぐらし、そ
の影響によって、ドイツには共産主義以上の独裁力をめざすヒットラー政権が誕生し
た。
第一次大戦の敗戦国として、天文学的な数字の賠償金を課せられたドイツの民衆が、
赤化のために、自分の口も糊し得ないほどの貧困にさらされてしまったのが原因だっ
た。
しかも、貧困はまた逆に赤化の苗床なのだ。彼らが赤化と飢餓から逃がれようとし
てヒットラーの独裁を歓呼して迎えたとしても、それを誰が責め得ようか。
黄昏期を迎えた文明には、もはや彼らを指導し、救済する力はすでになかったのだ。
同じ頃に日本は、二つの大きな現実の前に立たされて、今さらのように呼吸を詰めて
世界を見直しだしていた。
その一つはロンドン条約、ワシントン条約によって示された英米の真意であった。
この竹を割ったような単純な好人物の東海の一等国民は、少くとも英米両国は、心の
底から許し合った同盟国であり、自由と正義の友邦だと信じきっていた。
ところが、彼らは四方を海に囲まれた海洋国の日本に五・五・三の比率以上の海軍力
を持つことはならぬと云って、はじめて、彼らが日本を、真意はどのような眼で眺めて
いたかを示してくれた。
ある意味では、それは、はじめて彼らが日本を大人扱いにしてくれたのかも知れな
い。しかし、日本人はまだそれほど白欧主義的な大人には育っていなかった。
当然のように日英同盟も、あっさりと英国側から解消されて、はじめて日本の庶民の
間に、反英、反米の考え方が芽ぶきはじめた。
それまでは全くなかったことで、もしその日英同盟が今日まで続いていたら、人の好
い日本人の生き方は全く違っていたかも知れない。
もう一つは人口の増加に追いつけない貧困であった。「―富国強兵―」の明治以来の
国是で、分不相応の軍事費を負担して来た日本人の性活は、関東大震災による損害の前
で、ゼイゼイ息をきらしながら、しかし人口だけは殖えていった。
そして昭和の初頭に入るとこれも当然のこととして貧困と赤化と、さらに不景気の執
拗な旋じ風に見舞われだした。
満州事変はそうした窒息しそうな空気の中で起こった。
松岡洋右は、この事変に関する限り、これが主謀者として活躍した関東軍の石原、板
垣、花谷の三中佐たちを責める気にはなれなかった。
事実日本人はこれによって、はじめて小さな窓をあけられ、危く窒息をまぬがれ得た
のだ。
世界に、太陽の没する時はないと誇る少数民族の大国家があり、さらに世界中の黄金
のすべてが流入して困惑しきっている富裕国家が存在しているのに、七千万になんなん.
とする大家族をかかえた民族が、貿易の口を閉ざされ、既得権と既得権の間にはさまれ
て、手をつかねて餓死か、赤化かを待たなければならない理由はあり得ない。
しかも満州は、数万の先人の血を吸わせて、営々と犠牲を払って来た土地であった。
そこに、もしも九ヵ国条約による列強五分五分の進出を許し、さらに、ソ連側から赤化
の手をさしのべられたら、それは一頭の羚羊(かもしか)の肉にわざわざ禿鷹の群を誘
い寄せてやるようなものであった。
歴史はつねに必然によって動いてゆく。石原莞爾(かんじ)中佐たちは日本人を餓死
させる代りに、まだ馬賊跳梁の天地だった満州を、赤化の防波堤とし、さらに日本人も
含めた有色人種一般、すなわち五族協和の王道楽土に作り上げようとして蹴起したの
に違いない。
この事はもちろん一つのはげしい意慾に燃えた革新であり白欧主義からすれば奇道で
あった。すでに過去の道徳観、世界観を後生大事に抱え込んでいる上層部に許可を求め
ることではなかった。
熱烈な日蓮主義者であった石原中佐はおそらく仏道のめざす「真理―」に深く参入
し、天地に恥ずるところなしと断じてこれが決行に乗り出したのに違いない。
そう信ずればこそ、松岡洋右もまた、白欧主義の人々が既得権を主張してやまない国
際連盟の非難の中へ使いして、断然これと袂をわかって帰って来たのだ。
しかし、こんどの日支事変はそれとは全く別種のものであった。
ここでは近衛首相の、最初の指令どおり、
「―事件は拡大すべからず、兵力は絶対行使すべからず」
この一本の主張を、どこまでも貫き通すべきものであった。満州国はその後めざまし
い発展をとげながら世界注視の的になっている。事実、馬賊や馬賊的軍閥どもの襲来に
おびえながら、これも貧困のどん底に放置されてあった住民たちは、活き活きとしてこ
の建国に協力しだしている。
したがって、ここで最も大切なものは、明治以来の欧米模倣の後進性からやむなく絶
縁させられた日本人が、日本人本来のきびしい道義を遵守してみせなければならない大
切なところであった。
松岡洋右は、いつもそこまで考えて来ると、人間の持つ皮肉な弱点に慄然とするので
あった。
廬溝橋に日支事変が勃発すると、軍部の中で真っ先に事件の不拡大を叫んで起ったの
は、ほかならぬ満州事変の主謀者石原莞爾であった。
かつて中佐であった彼はこの時少将となり参謀本部第一部長の要職にあった。彼が満
州建国に協力して来たのは決して支那四億の民を敵とするためではなく、全くその逆で
あった。彼は一日も早く日・満・支一体の繁栄をめざして、黄昏れかけた殖民地主義の
鉄鎖を断ち切ろうとしていたのだ。
その日本が、ここで事件を拡大してしまったのでは、満州建国の意義は証明できなく
なり、一切の行動は無理想の「侵略―」になりさがる。
彼のこの自責と焦慮は部下の河辺虎四郎、稲田正純、陸軍省の軍務課長、柴山兼四郎
大佐などによって熱心に支持された。
にもかかわらず、いったん口火を切られた事件は、支那側の頑強な抵抗もあって、勃
発四日目には、近衛文麿に「北支派兵―」を決定させ、さらに九月五日の、
「今や断乎として贋懲のほかなきに至る……」
の声明を発させるまでになってしまったのだ。
むろんこれにはさまざまな原因が重なり合ってはいたが、そのいちばん大切な国内的
のそれは、実は、石原少将らが、かつて満州で実行して見せた「下剋上」の空気
が、意外な強さで軍部の内に根づいていたという皮肉からであった。
彼らはかつて石原、板垣、花谷らの三中佐が云ったと同じ言葉で上層部に喰ってかか
った。
「時代は違って来ているのだ。若い者に任して頂きたい」
内面の意義をきびしく詮議しなければ、満州の建国も北支政権の樹立も外側からは
同じに見えたに違いない。中にはもっと単純に、
「―われわれだって、満州くらいの領土は殖してみせてやる。年寄どもは引っ込んで
いるがよい」
「―そうとも。自分たちだって若い頃にはさんざん暴れて来ているじゃないか。民族
のエネルギーをどうして圧殺できるのだ」
中には昂然と口外する者すらあった。
この皮肉はつねに歴史につきまとう。個人の内部にも神と悪魔が同居しているよう
に、満州国はめざましい五族協和の発展とともに、手のつけられぬ下剋上の風潮をもま
た関東軍の内部から次第に全軍の間に育てあげつつあったのだ。
「―石原は中佐のままで、責任をとって割腹すべきだったのだ」
松岡洋右は、石原少将にそう述懐されて、返事に困ったことがある。
と云って、むろんそれだけが事件拡大の原因のすべてではないことは云うまでもな
く、そうした点の認識でも、近衛はひどく観念的で甘かった。
「―いったいこの事変は誰が起こしたと思うのですか」
松岡洋右は、事変当初に近衛首相にたずねてみたことがある。その時近衛は眼をそら
して返事をしなかった。それは近衛の最も不快さの表現なのだが、松岡は気がつかなか
った。
そこで彼は、彼が大満鉄の調査網によって調べあげた事実を一時間にわたって説明し
てやったことがある。
廬溝橋の最初の一発は、蒋介石を延安に拉致監禁して、国共合作を脅迫裡に承諾させ
た者たちの手によって撃ち込まれた……松岡が現地でそのことを流布させてみると、い
ちばん強い打ち消しの反響は、
「―いや、あれは排日の急先鋒であった北京大学の学生たちの悪戯なのだ……」
というのであった。
打ち消しのはげしいということは真実を衝かれたことの反証だと思ってよい。
満州国が健全に育ってゆき、日本と蒋介石の国民政府の提携が緊密化してゆけば、い
ちばん困るのは自由主義世界の諸国ではなくて、アジア赤化をめざす勢力のはずであっ
た。
したがって彼らは、何をおいてもまず蒋介石を攫って監禁し、これに反日の約束をさ
せる必要があり、さらに反日を煽っておいて、両者の間に紛争を起こさせるのは赤色革
命の常道であった。
とにかく廬溝橋の最初のうち合いは、日本側の発砲では断じてなく、同時に蒋介石側
の発砲でないことも明瞭だった。
にもかかわらず、日本軍は彼らに挑戦されたと信じて発砲し、彼らは日本軍に挑まれ
たと思いこんで事を起こしてしまっている。
そしてすぐその次に流された噂は国民政府の正規軍が、大挙して北上するという大宣
伝だった。
この宣伝に動かされて、近衛内閣もまた、三日にして閣議の決定を変更し「出兵
―」に踏み切らされてしまっている。
不思議はまだ続いた。
七月十九日の蒋介石声明は明らかに「日本よ掛かって来い!」というに等しい、およ
そ彼を知るほどの者ならば首を傾げたくなるほど激しいものであったし、さらに十日後
の七月二十九日の通州事件は、それでなくとも血の気の多い、日本の少壮軍人たちを激
昂させずにおかない残虐きわまるものであった。
表面は保安隊の叛乱とされているが、その煽動者はそもそも誰であったのか。完全に
暴民化した彼らはわが守備隊の留守を狙って、兵営、警察、特務機関と襲ってまわり、
市内に在住している邦人を片っぱしから虐殺した。特に婦人たちはその肉体に残虐の限
りの辱しめを受け、屍体をさいなまれながら衆人の前を引きまわされた。虐殺された者
の数は二百人以上……
そして八月に至ると中支でさらに不思議が重なった。
とにかく、日本側も蒋介石側も、争いを拡大したくないというのは蔽うべくもない本
心だった。もし事変が世界各国の権益の錯綜している中支の上海近くに飛び火したので
は、それこそ収拾のつかない混乱が予想されるからであった。
それは胸に国共合作のヒ首を突きつけられている蒋介石にとっても、満州国の周囲を
厖大なソ連の極東軍に見張られている日本にとっても、何の利益にもなりようのない不
安であり不利なのだ。
そこで、日本側は陸・海・外の三省会議を開いて秘かに解決条件を練り、わが川越大
使がそれを国民政府側の高宗武に提示、蒋介石の同意を得るところまで行っていた。
これには陸軍側でも参謀次長の多田駿中将はじめ、前に記した石原、河辺、柴山らの
熱心な支持者があり、
「これで解決するだろう」
あとはどうして激昂している少壮軍人たちをなだめるかだと、関係者一同ホッとした
のが八月八日だった。
ところが、まるでそれを見てでもいたように、翌九日の午後六時、上海西部地区に監
視連絡に行くために越界路付近を通りかかったわが海軍の大山勇夫中尉と斎藤要蔵一等
水兵の両名が、これまた保安隊のために惨殺されてしまったのだ。
惨殺すると同時に彼らは、ただちに武装を強化して、わざわざ日本租界のそばに陣取
り、捨ておくと通州事件の二の舞いを演じそうな威嚇をはじめた。
「―ご承知のようにこの大山事件が、まとまりかけた交渉をそのまま立ち消えにさせ
て、戦線を中支に拡大させた直接の原因です。いったい閣下は、これら一連の不思議
が、何者の手で演出されているかご存知ですか」
松岡洋右がそう云ったときも近衛文麿は答えなかった。
「―この事変の解決には三つの大きな障碍があります。その一つは日本の内部にある
少壮軍人の下剋上……もう一つはコミンテルンの日支赤化方策、そしてもう一つは、日
本にも蒋介石にも適当に干渉し、適当に威圧を加えながら、双方へ軍需物資を売ってい
る米英両国の商人たちです。米英両国は、どちらが勝っても、負けても、戦い続けて
も、行ない済ました表情で損をしない立場をとり、コミンテルンは日支双方を双方の内
側から煽ってへとへとにさせ、まずアジアの赤化に成功をしようと、あらゆる謀略の網
を張りめぐらしています。したがって国内の下剋上の連中は、一方では米英の武器商人
を助け、一方ではコミンテルンの手伝いをやっている。閣下! あの果てしもない広漠
たる支那大陸を、黙々と進撃してゆく忠良素朴な兵隊たちの戦列を思いうかべてみて下
さい。彼らはみな家を賭け、家族を賭け、わが生命を賭けて、至上の正義をめざして進
んでいるのです。この彼らの良心をほんとうに生かしてやるのが、日本を預る閣下の大
切な義務なのです」
近衛文麿の顔は、兵隊たちの話が出るといつも歪んだ。この善良な貴公子の神経は、
兵隊……と云われるたびにはげしい良心の疹きを覚えてゆくらしい。
それが松岡はまたたまらなく好もしかった。数千年間皇室の側にあって培われて来た
血液の中の良心に思えるのだ。
(その近衛首相が、どんな表情で立川まで出迎えているか?)
彼はすでに、昨夜大連から長距離電話で、近衛の声を聞いていた。
近衛は彼に、日ソ不可侵条約成立の労をねぎらったあとで、
「実はアメリ力から耳寄りな話が出ているのだ。飛行場で話そう」
そう云って電話を切った。その時も松岡は笑いをおさえるのに苦心した。
と云うのは、彼がモスクワで打ったもう一つの芝居の反響が、もうあったと思ったか
らだった。
三
飛行機は、ついに立川の上空に達した。
緑の草原の中に点々と建物が見え、その一角に日の丸の小旗の一群が小さくゆれてい
た。
彼の訪欧の効果や日ソ不可侵条約の成功はすでにニュースで国内へは知れわたってい
る。
(しかしまだ誰も知らない秘中の秘策がひとつ取ってあるのだ……)
あの日の丸の小旗の中に立っているであろう近衛首相も知らないことが……
彼はモスクワで、不可侵条約の交渉を続けながら、アメリカの駐ソ大使スタインハル
トに対し再三にわたってルーズベルト大統領への連絡を依頼して来ていた。
ルーズベルト大統領の手で、正義に基づく日支和平を結ばせるよう蒋介石に勧告
して欲しい。そのため遠からず松岡自身が渡米するであろうと云って来たのだ。
スタインハルト大使は、わかったような、わからぬような顔をしていた。
無理もない。米国側では、外相になると同時に軍部の尻を叩くようにして、ドイツと
イタリーと日本の間に三国同盟を結ばせた張本人は松岡洋右だと知っているのだから
いや米国だけではない。日本の軍部も右翼も、松岡こそ熱烈な反英米主義者なのだと
思い込んでいる。
「敵をあざむかんとする者は、まず味方から……」
それが松岡の秘中の秘策であったのだ。
いや、秘策というよりそれだけが、転換期の荒海を事なく漕ぎわたる唯一無二の方法
なのだと信じている。
スターリンがすでに白欧主義の常識を蹴破って生まれた新しい怪物だった。その怪物
を圧服しようとして、さらにムッソリー二という怪物とヒットラーという怪物が産まれ
ている。松岡はそれらの怪物どもを手玉にとって見せるだけの外交手腕がなければ、支
那事変は解決しないと見ているのだ。
彼は独伊を訪れ、転じてスターリンと結び、いまその実績を身につけた。つまり松岡
洋右もまた大怪物として、ただちにアメリカに向かうつもりなのだ。
そして米英の蒋介石援助が、実は彼らの最大の敵である国際共産主義者を雀躍させる
にすぎない自殺行為であることを悟らせ、蒋介石援助を断ち切らせることによって支那
の赤化を封じ、軍部をおさえて事変を解決して行く気だったのだ。
軍部を抑えるには常人であってはならない。むしろ狂人に近い怪物でなければならな
い。
「―そのためには手段は選びません。泥のハネは私がかぶって、誓って閣下に傷はつ
けませんから」
それゆえ、軍部と外交のことは私に任してくれるようにと、繰り返し念を押したのも
そのせいだった。
今となっては、支那事変解決の手段は、アメリカの仲裁によるよりほかに手はなかっ
た。アメリカがその気になってくれさえすれば、援助物資を断たれるのを恐れて蒋介石
もいやとは断じて云い得ない。
しかし、どうしてアメリカを動かすかとなると、やり方や条件は幾つもあった。
「―もはや日本は戦い得ませぬ。助けて下さい」
と云ったらアメリカは、いちばん喜ぶに違いない。そして、当然、無条件で支那本土
から手を引き、満州の主権も国民政府に引き渡して、九ヵ国条約の機会均等の昔に返せ
というだろう。それゆえこれは問題にはならない。そのようなことを軍部が承知するは
ずは全くないからであった。
そこで松岡は逆手を取った。軍部の喜ぶようにドイツ、イタリーの枢軸側と三国同盟
を結んでおいて、これをアメリカとの交渉の具に使うつもりであった。
すでにドイツは第二次大戦の火蓋を切り、一挙に欧州を席捲してしまっている。フラ
ンスは完全に本土を占領されて降伏し、英国も今や影が薄くなって、頼みの綱はアメリ
力の参戦だけの状態だった。
それだけによほど用心してかからないと、血気の軍部は、バスに乗りおくれるなとば
かりに日米戦に突入しかねない。
しかし日米戦争は絶対に避けなければならなかった。
というのは、日本が今日までとにかく支那で戦い得たのは、アメリカの供給する屑鉄
と石油のおかげだったのだから……
もし開戦してこれを断たれたら南も北もお手あげだ。
おそらくアメリカと戦争状態に入ったと聞いたら、待っていましたとばかりにソ連も
極東へ大軍の移動を開始するに違いない。
松岡が、日ソ不可侵条約を電光石火の間に締結して来たのもそのためだった。
(三国同盟だけではアメリカを動かす手土産にはまだ足りない。これにもう一つ、日ソ
不可侵条約を加えなければ……)
松岡は、英米二国の間が血液の上からも主張の上からも利益の上からも、決して二つ
のものでないことをよく知っていた。
したがってアメリカの参戦は時の問題であり、ルーズベルトが断じて参戦はしないと
巧みに民衆を瞞着して三度目の大統領に選ばれていながら、着々と参戦の準備にかかっ
ているのもよく知っていた。
そこで松岡は軍部の強硬派などの前では、
「―南進南進と云うのなら、さっさとシンガポールを衝いてみせたらよいではない
か」
すでに仏領印度支那(ベトナム)は、フランスの降伏によって全く無力化してしまっ
ているので、そんな心にもない事を云っては彼らを牽制し、煙に巻いて来たものだっ
た。
結論を云えば、彼の目的のすべてはアメリカの仲裁による日支の和平であり、日米戦
争の回避であったのだ。
飛行機は一度低空で輪を描き、それから滑走路の上に来て、軽いバウンドを残して停
まった。
「よし、この旅行鞄は私邸に届けて、すぐまた旅に出るからほどかずに置くようにと
云っておいてくれ」+
彼は随行の秘書に命じておいて、ニコニコとタラップを踏んでいった。
やって来ている。一団の小旗の群れの前に、彼がその忠誠心の限りをささげている近
衛が……
彼は少年のように胸がはずんだ。
おそらく飛行場で話そうと云っていた電話の用件は、
「―松岡が来ると云うなら待っている」
ルーズベルトからの、そうした伝達に違いないと彼は思った。
そうなって、彼が、このままアメリカヘ飛ぶことになったら、いよいよ彼の「秘策
」を近衛に打ち明けなければならない。
ルーズベルトがどう出て来るかそれはわからない。しかしこっちにも手土産の用意は
充分あるのだ。
「―アメリカがヨーロッパで参戦するというのならば、日本としても三国同盟は考え
直しましょう」
それが第一の手土産で、その次には日本の満州放棄がアジアに何をもたらすかを、誠
意をもって説くことだった。
肝腎のソ連でさえ、満州国の存在を認めて不可侵条約を結んでいるではないか。その
満州まで放棄させて、支那全土にわざわざ赤化の根をおろさせていったい何の利益がア
メリカにあるというのか……
そう云えば、歴史の方向に正しい見透しを持つものならば必ず、共産主義進出を警戒
して満州まで放棄せよとは云わないはずであった。
いや、松岡洋右は、もう少し人のわるい用意までしてあった。
彼はすでに、ドイツが、近々ソ連に進攻する空気を察して来ていた。
そうなればドイツとソ連の間にも結ぱれている不可侵条約は、そのまま一片のホゴに
なる。いや、もっと打ち明けて云えば、ソ連もまたドイツから西を衝かれる怖れがある
と感知して、あわてて日本との条約を結ぶ気になったのだ。
その意味では、いま世界はまさに百鬼夜行の謀略の世界であった。松岡はそれらを見
越して、ルーズベルトに最後にはこう云うつもりだった。
「―もし貴下がそれを欲するならば、日本は、三国同盟も日ソ不可侵条約も一切白紙
にして貴国に協力いたしましょう」
こうした肚を万一軍部の連中に察知されたら、それこそ松岡の生命などいつ吹き消さ
れるかわからなかった。むろんもっと厳然とした態度で交渉にはのぞむつもりであった
が、最低の目的……日支の仲裁だけは、是が非でも承諾させて来なければならないの
だ。
近衛はその点坊っちゃん育ちで、あらゆる人間を側に近づけている。もし勘の鋭い者
に怪しまれてはと、松岡は用心深く、近衛の前でも野放図なホラ吹きの道化役者でおし
通した。
(いよいよそれを今日は打ち明けなければならない!)
その時に、近衛がどんな顔をするかと考えるだけで、松岡は楽しくてたまらなかっ
た。
ワーッと歓声があがった。日ソの不可侵条約は、そのまま満州の無事に通じるので、
国民すべてがよろこんでいるのは当然だった。
松岡は手をふりながらまっすぐ近衛に近づいて、
「ただいま帰りました」
握手を交したときは、まだ感じなかったが、すぐそのあとで、ひやりと冷たいふしぎ
な風を感じて首を傾げた。
「飛行場で話そう」
そう云っていた近衛が、握手を交すと、そのまま前こごみに肩を落として、自分の車
の中へ姿を消してしまったのだ。
近衛の忠実な傅役をもって任じている松岡には、それが、近衛の何か心に思い悩むこ
とのある時の後ろ姿だったのにすぐ気づいた。
彼は外相用の車を寄せて来て、扉のそばに立った大橋次官に小声でたずねた。
「どうかしたのか。何かあったのか」
すると松岡に続いて自動車に乗り込んで来た大橋次官は、ちょっとうろたえたように
視線を泳がせながら、
「実は、ルーズベルトと総理と二人きりで洋上会談させてはという話が、アメリカ側か
ら出て来ているのです……」
「な……なんだと、総理に直接か」
松岡はガーンと頭上に鉄棒の一撃を喰った気がして訊き返した。
「それはいつ!? 誰から話があったのだッ」
続く
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ おわり ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
[ポパイ]にお便り下さい!popai@e-shodoshima.com
━━━━━━━━http://www.e-shodoshima.com/━━━━━━━━
TEL:0879-62-1659 FAX:0879-62-1659
IP電話:05033272095(IP電話加入者=無料通話)
〒761-4121 香川県小豆郡土庄町渕崎甲934番地
popai@e-shodoshima.com
編集者:[ポパイ] 発行責任者:竹林 栄子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
|