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四国八十八ヶ所霊場 第八十六番 補陀洛山清浄光院 志度寺

所在地:〒769-2101 香川県さぬき市志度1102
電話:087-894-0086
宿泊施設:なし

【由来】
推古天皇の三十三年(六二五年)観音菩薩の化身といわれる仏師が志度湾に漂流してきた霊木で十一面観音像を刻み、堂宇をた てたのが草創。のち弘法大師が弘仁年間(八一〇年〜八二四年)にこの寺を巡錫し、八十六番札所に定めた。
また、この寺の山門 には三つ棟木といった珍しい工法で、寛文十年(一六七〇年)藩主松平公の建立した日本三大名門のひとつとして有名である。 なお、当時の「海女」伝説や八代将軍吉宗の治世讃岐国志度浦に生まれた天下の奇才・平賀源内の出身地として有名であり多くの人 たちに知られている。

【民話】
それは、遠い遠い、昔のはなし、天智天皇のころ、大織冠藤原鎌足の娘、白光が唐の皇帝高宗の妃とし て嫁いでいたころのはなしじゃー。
鎌足が死んだのち、氏寺でもある、奈良の興福寺へ「父の供養のために…。」と、高宗皇帝より、中国 にも二つとない宝物三点が贈られることになった。
その一つは『面向不背の玉』(まわりが24センチのガラス玉で中には、どの方向からも拝むことが出来 る、釈迦三尊の立像がはいっている。)
その二つは、『花原馨』(高さ94センチの金鼓で、その姿は美しくよい音色を出す)。
その三つは、「四浜石」といい、楽器の一種で一度打つとその音絶えず、衣を着せないと音が止まらぬという。
これら三点が遠い唐の国より玄海灘を渡り、瀬戸内海を通り、いよいよ明後日は、難波(大阪)の港へという前々日の日、船が 志度の浦にさしかかったとき、夏も過ぎ、初秋の瀬戸内に俄かに一天かきくもり暴風雨がおこり、三つの宝物のうち『面向不背の玉』 が竜神のために奪われてしまった。
その後、二つの宝物は唐の特使の手で無事興福寺に奉納することができた。
しかし、どうしても父藤原の鎌足のためにも、皇帝高宗のためにも、鎌足の嗣子藤原不比等(淡海公)は奪われた玉を取り戻そうと、 身分を隠して、都より志度浦へやってきた。
年月はたちもう三年にもな.るが、何一つ玉を取り戻す手がかりもみつからず、 毎日毎日悶々とすごしていた。そんなある日、日頃よりいろいろ気をつけ、なにかと世話になっていた大変美しい漁師の娘(海女) 綾と恋仲になり、夫婦の契りを結び一子房前という男の子にも恵まれた。おだやかで幸わせな毎日じゃったが、いつにな れば目的を果たして都へ戻れることかー。
思い悩んだあげく、不比等はある日、玉の行方を探しにきた自分の素姓と目的を綾に話した。海女の綾は
「承知致しました。それではわたしが玉を取り返してきましょう。その代わり忘れ形身の房前を藤原家の跡取 りにして下さい。」
と頼み、早速、翌朝竜宮へ潜ることを決めた。
「運良く玉が取り戻せたらこの綱を引きますから、すぐに引っぱり上げて下さいませ。」
と綾は不比等にそう言い残すと、命綱を腰に結びつけ短刀を口にくわえて静かに竜宮へ身を沈めた。
どの位の時がたったろう、綾からの合図があった。
不比等は急いで綱をたぐると、哀れにも綾の手足は竜神 に喰いちぎられていた。そして縦横に切った乳房のなかに奪いとった玉を隠し持っていた。
「胸の中に…。」
と綾はひと言いうと、不比等の胸の中で息絶えたという。
取り返した玉は、無事興福寺へ納められた。房前は後年藤原家を嗣ぎ大臣に出世した。
ある日、父から母である海女綾のことを聞き、行基を連れて志度寺を訪れ、志度寺の西北一丁ばかりのところに千基 の石塔を建立し、一間四方の小堂を五間四方の大きな堂塔に建て替え、志度道場と名付け、さらに法華八講を修して亡き母の 菩提を弔ったということじゃ。
志度浦で取り返した玉は、いま聖武天皇奉納として近江国琵琶湖にある竹生島宝厳寺に国の重要文化財として保存されている。
なお、志度町には玉取り伝説にまつわる遺跡が現在でも多く残っている。

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