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四国八十八ヶ所霊場 第八十一番 綾松山洞林院 白峯寺

所在地:〒762-0016 香川県坂出市青海町2635
電話:0877-47-0305
宿泊施設:あり(100人)団体のみ利用可。要予約。

【由来】
弘仁六年(八一五年)弘法大師は白峰山に登り、峰に宝珠を埋め閼伽井を掘られたのに始まり、ついで貞観二年(八六〇年)白峰大 権現のお告げにより、円珍和尚は瀬戸内海に異香を放つ流木を引き上げて千手観音を刻み、ご本尊として安置した。
その後、寺は盛衰を くり返し、本堂は慶長四年、高松藩主生駒家が再建したものであり、大師堂は文化八年、松平頼儀公が佐藤掃部と共に再建している。ま た崇徳上皇が配流され崩御された御陵、その菩提をとむらう頓証寺殿がある。

【民話】
保元の乱は後白河天皇と兄の崇徳上皇との争いだったが、天皇方の平清盛や重盛らの奮戦で上皇 方は敗れ、戦後崇徳上皇は讃岐に配流されることになり、保元元年(一一五六)八月三日、讃岐松 山の津に上陸、古刹白峰寺の仏堂、松山の館にはいったが、そのとき
 ここもまたあらぬ雲井となりにけり
 空行く月のかげにまかせて
と感慨を一首の歌に託されたので、後世ここは"雲井の御所"と呼ばれるようになった。雲井の御 所で三年を過ごした上皇はやがて国司の建てた鼓岡の御殿に移ったが、わびしい配所の明け暮れを 嘆き、
「もしもこの地で没したら、わが魂は望郷の鬼と化すやもしれぬ。罪業消滅のため大乗経を写 経しようと思う」
と三年を費やして写経を完成し、
「高野山か父君鳥羽法皇の御陵に納めたい」
と朝廷に願い出たが、後白河天皇は許さず、写経を 突き返した。上皇は激怒し、
「罪滅ぼしのための写経も受けいれられぬとあれば致し方ない。この経文は鬼神に捧げ、われは 鬼となって恨みを晴らすぞ」
と舌を噛み、その血で写経の奥に呪文を書き、これを海底深く沈める と、それからは髪も爪も伸びるにまかせ、ひたすら鬼道を念じつつ、長寛二年(一一六四)八月、 四十六歳をもって配所に没した。
四国の八月は暑さがきびしいので、都から検死の役人が来るまで上皇の遺体を保存することは不 可能に近かった。しかし鼓岡の御殿近くに、昔から"八十場の清水”という名泉があり、その水の冷 たさは比類ないといわれていたので、その冷泉に遺体を浸して無事に検死役人の到着を待つことが できた。
崇徳上皇はその最期があまりにもすさまじいので、没後多くの怨霊譚が生まれた。現在坂出市に ある"血の宮、煙の宮"の由来もその一つである。
上皇の遺体は白峰山の稚児滝のあたりで茶毘に付されたが遺体葬送の途中で突如雷鳴がとどろき、 大雨が降りだした。そこで遺体を納めた棺を大きな石の上に安置し雨足のしずまるのを待ってから 棺を動かすと石の上に薄赤く血が流れていた。遺体には外傷はないので、人々は不思議がったが、 いよいよ茶毘に付すと、その煙は風にも散らず、白くまとまってまっすぐ空に立ち登っていった。
村人は上皇の霊を慰めるためにここに一宇を建て"煙の宮"と称し、血のしたたった石のところには "血の宮"を建立した。
崇徳上皇の廟所は、白峰山の仏堂頓証寺殿で、その裏に上皇を葬る白峰御陵がある。のち仁安三 年(一一六八)西行法師は西国行脚のおり、上皇の霊を慰めるべく頓証寺殿に詣でると、上皇の霊 が現れて、
「何ぞはやく重盛の命を奪い、清盛を苦しめざる。かの讐敵ことごとく此前の生みに尽くすべし」
と告げた。西行は魔道の浅ましさに涙を流し、よしや君むかしの玉の床とてもかからん後はなににかはせん と歌を詠むと、堂が鳴動したと伝えられている。

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