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四国八十八ヶ所霊場 第七十一番 剣五山千手院 弥谷寺
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所在地:〒767-0031 香川県三豊市三野町大見乙70 電話:0875-72-3446 宿泊施設:なし
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【由来】
天平年間、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創。山上からは四国、中国の八ケ国が望められるところから蓮華山 八国寺と号していた。
その頃弘法大師は真魚と呼ばれて岩窟で修行していたという。さらに延暦二十三年に入唐した大師は真言密教を受法され、帰国ののち
大同二年再度登山修行中、空中から五柄の剣が降る霊を感じたことにより剣五山と改号し、本尊千手観世音菩薩を刻んで安置し、弥谷
寺と改号し七十一番札所と定められた。当寺は岩盤の中に堂宇があり、四国霊場唯一の摩崖仏(岩壁に刻まれた阿弥陀三尊)に大師が
彫りつけられた弥陀宝号、梵字などがあり、唐の国から請来したという金銅五鈷鈴がある。
【民話】
むかし、むかし、たいそうえらいお坊さん二人が法力合戦をしたんだとさ。
それはのおー。今で云う鳥坂峠のあたり、国道十一号線を挟んで善通寺市と三野町の境界に剣五山と火上
山という二つの山にかかわるはなしじゃー。
その日は秋というのに、朝からたいそう蒸暑い一日だったそうなアー。
里人たちは、 「今日は大変な一日になるぞ!」 「盆と正月が一緒に来たような日になるぞ!」 と、口々には
やしたてたという。
それもそのはず、火上山の天辺(頂上)から、山の下まで一夜にして井戸を掘るという"守敏大師"。
一方、弥谷寺の裏山に四方八千体の磨崖仏を彫るという"弘法大師"。 どちらのお坊さんも、四国はもとよ
り日本で二人とない立派なお坊さんだから、里人たちにとればこんな素晴らしい『法力合戦』を目のあたり
に見えるのだから、興奮するのも無理がないこっちゃー。
「おい、今日の法力合戦どっちのお坊さんが勝つのかのおー。」 と、里人たちは二人、三人よれぱ、口々に
大変なさわぎとなったとさ。 「だけどなア」 「勝負は誰がきめるのじゃ」 「それがまた偉いいお坊さんのこと、自
分自身で井戸を掘り終わったとき、磨崖仏を彫り終えたとき」 「それぞれお互いに合図の"のろし"をそれぞれ
の山より掲げるのじゃそうなアー。」 「それじゃ、わしらはここから山を見とったら解かるのじゃのう。」 「そ
うじゃ。そして、その後、山に行って実物を見たら解かるかなアー。」 「たのしみやのおー。」 「早よう明日の朝
がこんかのお!。」 と、口々にさわぎたてていた。
二人のお坊さんは、陽ぐれと共に一心不乱に磨崖仏と井戸掘りを始めた。それはそれは、それぞれのお坊
さんが一人で彫ったり、掘ったり、しているものとは思えない程、素速い動作でつぎから、つぎへと掘って、
彫っていっていたという。時が過ぎ、東の空が白けかけ夜が明けてきた。里人たちは、息をころしてどち
らが勝つか、火上山と弥谷さんの山頂の"のろし"を、今か今かと眺めていたんじゃとさ。
そのとき、東の空に紅いの帯を引いた朝やけの火上山の天辺より"のろし"があがった。里人たちはその"のろし"をみて、
「守敏大師が勝った。」 「勝った。」 とさわいだー。
ところがほんとうの事は、守敏大師はまだ2.3メートル残したところで"のろし"をあげたのじゃそうなアー。
それ以来、火上山のことを『火ぶり山』と人々は云うようになったとさアー。
一方、弘法大師は、夜があけると共に、ノミや石鎚をかたずけ、磨崖仏に魂を入れ、御来光を待っていた。
自分が勝負には「勝った。」ことは解っていたが"のろし"をあげることをしなかった。人間のすることは
「勝ち負けではない。」里人たちはさわいでいるが私がしたことは後世の人たちにはきっと解ってもらえるも
のだと信じ、おのれが一心不乱に彫った、「磨崖仏が人々の祈願をかなえてくれることで」答が出ると確信し、
勝ち、負けにこだわらなかったということじゃー。
「偉いもんじゃのおー」
一方、それにひきかえ、自分が勝負のみを考えた、『おのれの心の貧しさ』を感じとった守敏大師は、火
上山山麓に「おのれの心のおろかさ」を弘法大師や、里人たちに御詫びするため、剣五山(弥谷)に向かっ
て、石仏を彫ったのじゃそうなアー。
その石仏は、すわって心を静め、目から涙を流している石仏だったとさアー。それからというもの、その
石仏は風にたえ、西陽をうけ、寒い北風にあい、それでも耐えに耐えぬき、里人たちの見る人によれば、涙
がほくろに見え、えもしれぬ美しさがあり、心おだやかになり、半面修行僧の荒々しくも、たくましい、顔
相にも見える仏になったとさアー。
その石仏が人面石として、つい昭和五十年代まで、あったというが、今は周囲一面がみかん畑に成り、昭
和五十年代の台風によるものか、なんらかの原因で貴重な文化遺産があとかたもなく姿を消したことはさび
しいことじゃのおー。
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