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四国八十八ヶ所霊場 第六十九番 七宝山 観音寺

所在地:〒768-0061 香川県観音寺市八幡町1−2−7
電話:0875-25-3871
宿泊施設:なし

【由来】
大宝年間、目証上人によって開創された。当時は神宮寺と号していた。大同二年、留錫した弘法大師は聖観世音菩薩を刻み、安置す る堂宇を琴弾山の中腹に建立し、その周辺に四十七基の仏塔を建て、七種の珍宝を埋めて地鎮したことにちなんで、その山号を七宝山と 改号した。と、共に当寺の第七世住職となられた大師は、南部興福寺にならって七堂伽藍を建立し、先に刻んだ聖観世音菩薩を本尊と して中金堂に安置し、それまでの神宮寺の寺号を現在の観音寺と改号され、六十九番札所と定められた。

【民話】
日本列島でお酒が造られていたと思われるのは、稲がまだ伝来されていない、前弥生時代の井戸尻遺跡か らカメに付着していたブドウの種子が出土しているところから推測され、この頃からと思われている。
讃岐で"こうじの里"といわれる室本に、いつの頃から"こうじ"が造られていたか定かではないが、"こう じ"についての文献その他学術的なものは当時より資料としては残ってはいないが、ただ七〇〇年前頃『播 磨風土記』に記されている文献によると、カビを加工技術に意識的に利用したという生活の知恵は記録とし て残っている。
『魏志倭人伝』の酒の記事でもあるように、これは、弥生後期頃、収穫した稲をカビの力で糖化して発酵酒 をいたるところで造っていたと思われるふしが多々ある。
現在のように蒸し上げた米に"こうじ菌"を意識的に生かす技術がどのようにして得られたかは、まだ明確 ではない。しかるに、この酒を造る過程で『あま酒』が『酒』に変わったということは云うまでもありません。
酒造りの話を進めると奈良朝に至るまでは、酒造りは、おもに女性によってなされたと思われる。奈良朝 に至って"こうじ" "米こうじ"が中国大陸より伝達され、これが現在の日本にある日本酒の源流となると考えられる。
約六〇〇年後の室町時代以降になると、醸造現場には女人禁制の習慣が確立され、現在に至っている。
はなしを"こうじの里室本"にもどそう。それはそれは、遠いむかし、室本の沖に小さな舟に乗って漂流してい る一行を室本の浜で数人の若者が見つけた。春というのに前夜は台風のような荒れようだった。若者たちは 舟が流されていないかと、浜辺に舟を見廻りに来て一行が漂流していることを見つけた。
「おい!大変だ!」「みんなを呼んでこい!」
「助けに行くぞ」
と。取る物もとりあえず、かたっぱしから、 そのあたりの舟に乗って沖に向かって"ろ"をこぎだした。
若者たちの舟は、あっというまに漂流している小舟に着いた。
「大丈夫ですか?」
「急ぐにそちらの舟に行き ます」
といって、それぞれが手わけして漂流者たちを自分たちの舟に乗せて室本の浜に着いた。
このさわぎを知った里人たちは、漂流者の無事を祈って多くの人たちは浜辺で待っていた。
「やった。えらい ぞ!」
といって浜辺でいる里人たちは、いっせいに拍手や、かんせいで若者と漂流老を迎えた。
漂流者の一行は、都の人らしく、見なりも立派、ことぱ使いも室本の浜の人たちには、解らない言葉もあ り里人たちは、
「これはたいそうえらい都の人じゃ」
「私たちでなんとか元気が出るまで看病してあげよう」
と いうことになり、若者老人といわず、みんなが協力して都の人を助けた。
秋も深まり稲の収穫が始まった。都の人たちももうすっかり元気になられ、都に帰る日が近づいたある日、 里人たちに
「何か一つ。」
「おみやげとして、私たち一行の感謝を伝えたい」
と思い、"あま酒"の造り方を里 人たちに伝授した。里人たちは、大そうよろこび、こんなおいしい飲み物を今日一日ではもったいない、どう かのちまでも残したいのでこの製法を教えて下さいとたのんだ。都の人は、それでは私たち一行をこの浜に つれて来てくれた、七、八人の若者 ツタヤ(久保)・ワカマツヤ(三谷)・キヤ(木村)・イズミヤ(吉本)・エビ スヤ(松浦)・イリヤ(入江)・ヤオ(八百)・チャーヤ(大西)に伝授しようということで、"こうじ菌" の造り 方を伝授された。広く県内はもとより、愛媛、徳島、高知とお祭にはなくてはならない "あま酒" のこうじが重 宝され、七百年の歴史の深い重みを感じる "こうじの里" 室本である。

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