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四国八十八ヶ所霊場 第六十六番 巨鼇山千手院 雲辺寺

所在地:〒778-5251 徳島県三好市池田町白地763−2
電話:0883-74-1707 宿泊施設:なし

【由来】
延暦八年(七八九年)、大師一八才のとき、この地こそ霊山なりと感じられ山頂近くに堂宇を建立したのが始まりだという。のちに 大同二年(八〇二年)嵯峨天皇の勅願を奉じて、再び登山した大師は、千手観世音像を刻んで本尊とし、仏舎利を納めたのち六十六番 札所に定めた。その後寺運は盛運をきわめ、鎌倉のころには七堂伽藍も整って、四国高野とも呼ばれていた。境内の周りは杉の巨木に 囲まれ、四国霊場最も高い標高九一一メートルのところにあり、常に霧がかかり雲に包まれたようになっているために、寺名がつけら れたともいわれている。
見わたすかぎり連なる山々は雄大で神秘さをひそませている。

【民話】
大野原町の辻東、国道と県道の交差点の近くに大きな樟の木があります。樹齢(木が生えてからの年数)は もう千年以上もたっていると思われ、四方に伸びた枝におおわれた広さは五アールもあるといわれています。 木の高さが二十四メートルもあるので、かなり遠い所からでも、民家の屋根越しに小山のようなこの木が見 られます。そばへ行って計ってみますと、幹の直径はニメートル五十センチ、まわりは七メートルもあります。
いつのころでしょうか。もう、二、三百年も前のことでしょうか。この樟の幹に、お地蔵さんの立った姿 を彫りこんだ人があります。その人は、身を清め心を澄ませて樟の木に向かいました。どのように彫るのか は、頭の中にちゃんと描かれていたのです。まず、根本からニメートルくらいの高さから彫り始めました。 それからなん日かかったでしょうか。深さ一メートル余りえぐりこみました。そして、幹の中心と思われ るあたりに、いよいよ、ありがたいお地蔵さんの立像の彫刻を始めました。手もとを照らすあかりをたより に、一心不乱に、のみをふるいました。樟の木のにおいがぷんぷんただよう中で、何かの経文を唱えながら彫 り続けました。
こうしてまたなん日かたちました。とうとうお地蔵さんができ上がりました。生きた木に直接彫りこんだ 珍しいお地蔵さんです。高さ一メートルニ十センチ、耳の大きい、すずしい目をした、円満な顔つきのお地 蔵さんです。
このお地蔵さんの開眼供養(新しく作った仏像に目を入れ、魂をこめる式)の日のことでした。どこから ともなく、みすぼらしい旅の坊さんが通りかかりました。そして、供養のようすをじっと見ていましたが、 いきなり、
「そんなことでは魂がはいらない。わたしがおしょうねを入れてあげよう。」
といいました。
樟の木に彫りこんだお地蔵さんの前に立ったその坊さんは、集まった人々があっけにとられているのもか まわず、手にした錫杖(僧が持ち歩く、先に数個の金属の輸のついた鉄の杖)を力一ぱい振り始めました。 それと同時に大きな声で何かのお経を唱えました。なん分くらいたったでしょうか。
お地蔵さんが大きく目を見開いてパチパチとまたたきをしました。人々は
「あっ、お地蔵さんが目を明けた。」
「なんべんもまたたきをなさった。」
「ふしぎなことじゃ、ありがたいことじゃ。」
と口々に言いながら、手を合わせて深く頭をさげました。ふと、気が つくと、あの旅僧がおりません。いつのまに、どこへ行ったのか、それきり姿を見せませんでした。
こんなことがあってから、このお地蔵さんを「またたきの地蔵」と呼ぶようになったといいます。後に、 お地蔵さんを包みこむように、樟の木にくっつけてお堂が建てられました。お堂の中から見ると、ちょうど、 仏壇の奥の仏さまを拝むのと同じように、お堂の奥にお地蔵さんが拝めるようになっています。
生きた木に彫った地蔵さん「生木の地蔵さん」と親しまれ、人々から信仰されています。樟の木は「切ったら血が出る」 霊木(ふしぎなありがたい木)として崇められています。
昭和五十一年に、この樟の木とお地蔵さんは、大野原町の天然記念物に指定されました。また、樟の木は、 昭和五十四年に四国新聞社が選定した。香川県の「ふる里の名木」にはいっています。

【美しく、豊かな田園都市、大野原町のおいたち】
寛永15年頃(約340年前)、当時讃岐一国の藩主だった生駒壱岐守高俊の家臣で、豊田郡郡奉行である西嶋八兵衛が、大野原の開墾の第一は かんがい用水を得ることであると、井関池の構策を始めたのが大規模な大野原開墾の初めであり、 その後、生駒家が他の地へ移ったため、この計画は一時中断されたが、その後を受けて、大野原開墾の祖である平田与一左衛門正重が長年に わたる努力でこの計画を完成させ、現在の美田が生れました。
旧大野原村は、大野原、花稲、中姫の3か村に分かれていましたが、明治23年の町村制施行と同時に大野原、花稲が合併し、その後中姫村 を合して大野原村となりました。
旧萩原村は江戸時代には丸亀藩領となっていましたが明治23年にその区域が萩原村となりました。
また、旧五郷村は、井関、内野々、有木、海老済、田野々に分かれ、通称5か山と呼ばれて いましたが明治23年に五郷村となっています。
一方、旧紀伊村は古墳が多数散在していることから見ても、町内のどの地区よりも早く開け、西讃文化の中心地であったと思われます。 旧紀伊村は、丸井、木之郷、青岡、福田原の4か村に分かれていたが、これも明治23年に町村制施行と同時に紀伊村となりました。その後 は、昭和30年2月11日、大野原村、萩原村、五郷村が合併して大野原町となり、同年4月10日紀伊村の大部分(丸井、福田原、 青岡)を吸収合併して現在の大野原町となりました。

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