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【由来】
本尊は三尺の釈迦如来。脇士の薬師、阿弥陀の三尊とも大師の作。
古くは聖武天皇の命をうけて行基菩薩が開基し、金光明寺と称して
いたが、のちに弘法大師が訪れ、"黄金井"から霊水が湧き出てい
るのを見て金泉寺と改めたという。大師堂近くのこの井戸に自分の
顔が映れば長寿がかなうとか…。後年、亀山法皇がこの寺をご信仰
になり、三十三間堂を建立、千手大悲の観世音菩薩像を安置して山
号の亀光山を賜号。その昔、源平の戦いの時、義経がこの寺で休息
し弁慶の力量をみせたといわれる「弁慶の力石」や応永五年、南朝
の長慶天皇がこの寺で、五十一才にして崩御され、その御陵といわ
れる墓石などがある。また、勅願道場として経蔵を置き、学侶など
の講演もあって大いに栄えていたという。
【民話】
むかし、むかし、欲の深い分限者と、たいそう気だてのやさしい百姓
がここ金泉寺の近くに住んでいました。
今年も今日一日をのこした大晦日のこと。分限者の家へ七人の旅人が
死人をかついでやってきた。分限者の主人は
「明日が正月だというのになにごとだ。」
「えんぎでもない、死人とはなにごとだ!!」
「そんなもの門からもはいらないでくれ…。」
と、下男に命じて、その旅人たちを玄関ばらいしてしもうた。旅人た
ちは、しかたなくとなりの百姓の家へ行った。百姓の家では、明日は
正月だというのに餅も神様におそなえするぐらいしかなかったが、気
持よく、その旅人たちをむかえた。
「なんにも出来ないが、お茶の一杯でも飲んで身体をあっためてくだ
され…。」
「その死人のこも包みの人も土間では寒むかろう、せまいが畳の上に
ねかせて、あげて下さい。」
「お正月がすぎるまで、あづかりますよ−。」
といって七人の旅人たちをよろこばせた。旅人たちは身体もあったま
り、
「それでは私たちも行くところがありますので、このこも包みの死体
をあずかって下さい。正月がすぎたらもらいにまいります。」
といって外に出ていった。
そして、その晩七人の旅人の一人が帰ってきて、
「お爺さん、お爺さん。」
「明日、元旦の朝にこも包みをあけなさい。」
といって立ちさった。
元旦の朝、お爺さんはいわれたとおりに、こも包みをあけびっくりし
た。死体だと思っていたものが、山吹色の小判がざくざくこぼれ出た。
七人の旅人は七福神でした。気だてのやさしい百姓に福を持って来て
くれたのです。
一方追い出した分限者の家は、急に不幸がつづき貧乏になったという。
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