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四国八十八ヶ所霊場 第二十三番 医王山無量寿院 薬王寺
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所在地:〒779-2305 徳島県海部郡日和佐町奥河内字寺前285−1 電話:0884-77-0023 宿泊施設:あり(100人)要予約。
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【由来】
行基菩薩が開基したのち、弘仁六年(八一五年)弘法大師四十二歳のとき、天城天皇は大師に、衆生の厄除け祈願寺を、との勅命を
下した。大師自身も諸人の厄災難を除こうと誓願をたてられ日和佐へ来錫した。厄除け薬師如来像を刻んで本尊とし、当時を厄除けの
根本祈願寺として開山された。以来、嵯峨、淳和、後鳥羽天皇の尊信を得、また、歴代天皇は厄除け祈願の勅使を薬王寺へ下向させて
いる。 文治四年(一一八八年)の火災でご本尊は光を放ちながら玉厨子山へ飛び、自ら避難したという。再建後は新しい尊像が造顕さ
れたため、もとの尊像は後ろ向きに本堂へ入られ「後向薬師」とよばれる。現在二体の薬師如来が祀られていて、後向薬師は本堂の裏
から拝することが出来る。発心の道場・阿波の道場はここで打ち終える。
【民話】
いつの頃より、誰が言うでなく、この石に祈願すれば必ず、恋が成就したと伝わる供養石がある。
その石は恵比須洞(海蝕洞)の頂きに恵比須神社(近年再建立された)という神社に祀られている。
神社から見る眺望は絶佳の景勝地であり、このような悲しい物語があったとは誰もが想像出来ない
所である。
それは遠い昔にさかのぽる。この日和佐の浦は、当時より南阿波は基より阿波の国でも一、二を競
う京・大阪(難波)の集散交易港の拠点であった。その交易を一手に取り仕切るのが回船問屋『阿波
屋』であった。その阿波屋の歴代の番頭の中でも屈指の大番頭弥平次という、体力・気力・智力・
情にも厚い、たいそう立派な番頭がいたという。その番頭の息子弥助も父に勝るとも劣らない非凡な
才能を持った、二十才の見習い番頭だったという。
その年は大変天候不順で稲の生育が心配される夏の日だった。
「番頭さん、今年の米は不作だと思う。この秋は、米より芋に手をつけようと思っ
ているのじゃー」
と旦那の徳兵衛は弥平次と相談した。その結果、大変な仕事になるが、且那と番
頭の息子弥助が撫養へ芋の買い付けに行く事になった。
しかし、当日、旦那の徳兵衛さんが急に体調をくずし、急きょ、御寮さんと弥助が買い付けに行く
ことに成った。しかし、当時は米といわず畑や田で取れる物はすべて国禁であった時代だった。そ
のため撫養での芋の買い付けは隠密に行動しなくてはならなかった。流石の弥助も智恵をしぽり、
品を変え、手を変え、目標の芋買い付けに成功をみたかに見えたが、一部の買い札が役人の手に渡
り『国禁の刑・回船問屋剥奪の刑』にふれることを察知した弥助は、主家のこと、父のことを思い、
「そうだ!!」
「私は決して芋を買い付けに来たのではない。」
「ただ顔色を変えたのは不義密通をしていることが発覚したと思ったからだ!。」
と弥助は御寮さんに横恋慕して、不倫の道行き途中であると、役人の取調べに答え、弥助は自分と御寮さ
んの命を賭けて回船問屋『阿波屋』と南阿波の交易の拠点、日和佐の浦を守ったという。
一説には当時阿波の交易港をめぐって、撫養の林崎浦と日和佐浦との争いだったとも言われている。
ところが、里人たち、浦人たちは真相も知らず、
『御寮さんと弥助』の不倫の道行きと罵声と潮笑をあびせた。
それから何年たったろう、誰が言うでなく、弥助の機転と智恵と主家に対する恩義と、御寮さん
の弥助に対しての信頼と想いの深さを知り、ここ恵比須洞の頂上に供養石を建立し、二人のあの世
での幸せを祈願したという。
それ以来、この石に祈念すると『恋』が成就出来ると伝えられ、現在にいたる。
尚、弥助は不義密通の罪で津島に流刑され、ある日脱島し、大島を経て日和佐浦に向かったが、
力つき溺死したという。また、御寮さんは弥助のあとをおい恵比須洞の頂上より投身自殺をしたと
いう。
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